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homia

Author:homia
homia(ほみ)
2004年春、山岸涼子の「テレプシコーラ」を読み
同年8月東京バレエ団40周年記念ガラからバレエに通い始める
2006年7月7日ブログ開始

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ミラノ・スカラ座バレエ Gala des Étoiles 4月27日、29日 ムッルの演目編
Roberto Bolle - Massimo Murru
Chant du compagnon errant

Coreografia:Maurice Béjart
Musica:Gustav Mahler
Lieder eines fahrenden Gesellen
Baritono:Christopher Maltman

ようやくボッレとムッルの「さすらう若者の歌」が実現した。当初は2009年12月、2009-2010シーズンのバレエ・オープニング「Serata Bejart」で実現するはずだったが、ボッレの故障によりその時の相手はガブリエーレ・コッラード。その公演も観ているが感想は残していない。ムッルが青のレオタード、ボッレが赤のレオタード。二人の男は向き合い、対話し、共に歩み戯れ、やがて対立し、青の男は赤の男に飲み込まれるように闇に連れ去られる。二人は別人か、赤の男は分身か。二人のダンス、表現における力量の拮抗が欠かせない作品だが、主となるのは青の男である。
2009年のコッラードとの共演のときはムッルの内面の表現が際立ちそれは素晴らしかったが、対する赤の男の存在に弱さを感じた。ボッレという対等以上のパートナーを得て作品の世界はバランスよく提示され、ムッルの表現は更に深まったと感じた。

どこか頼りなく何か、おそらく希望や生きる意味や幸せを求めてさまよう青の男。両腕を前に差し伸べ、片足も前に出してプリエをし、次に鳥が羽ばたくように開いてから2番の深いプリエ、片腕は肩にうつむく。この冒頭の動きは何度も繰り返し出てくる。その前に差し伸べられる腕に静かな希求を感じ、はばたきの優雅さに魅せられ、深いプリエの沈痛な表情が胸を刺す。後ろに、傍らにいる赤の男を常に感じながら、一筋の光を手にした気になり、穏やかな表情を表向きは見せていながら心は許していない赤の男と共に楽しげに歩み、生きることの歓喜を投げキスで放つ。青の男は赤の男の隠しているものにその時は気づかずに、心の底から嬉しそうな表情をしている。それが幻であったことにすぐ気がつくけれど。確信を持ってひたと追ってくる赤の男。違うだろう、そこには何もないんだ。抗う青の男。二人の対立。勝利を収めるのは赤の男。輝きを取り戻そうと心のうちを探し再び投げキスを放つ青の男の哀れさ。最後は弱々しく赤の男に手を引かれて暗闇に消えていく。

そのひとつひとつの内面の移り変わりをムッルは全身の表情で余すことなく表現しきった。追いつめられる、受け身の側がこの人にはどうしても嵌る。そして追いつめるのは生けるギリシャ彫刻のボッレ。ボッレの表現は抑え目で、それがかえって不気味にしのびよる強さを感じさせてとても良かった。ムッルを偏愛する自虐的ファンとしては、若干衰えも感じさせる彼のテクニックとボッレの正統的で美しいテクニックが対比されたらどうなるだろうと心配していたが杞憂に終わった。それは勿論好みの分かれるところだろうが、ムッルのアラベスクもピルエットもシンプルなプリエですら、彼は彼の美しさを保って引けを取らなかった。見劣りなどしなかったのだ。求め追いつめられ抗う者の、見る者の胸を打つ身体がそこにあった。ボッレと比べれは細く薄い上半身、バランスとして長すぎる腕と脚。いつだってそこにどうしようもなく惹き付けられてしまう。

男性二人によって演じられるこのすこし特別な作品に、この二人の組合せと今のタイミングは時宜を得たものといえるし、二人は心に触れる世界を見せてくれた。再びのチャンスをGala des Étoilesという最良の機会に用意してくれたスカラ座には拍手を送りたい。その場に居合わせることが出来た幸運には感謝を。


Emanuela Montanari - Massimo Murru
Onegin
Pas de deux - Atto III

Coreografia:John Cranko
Musica:Pëtr Il'ič Čajkovskij

モンタナーリのタチヤーナ、ムッルのオネーギンで2010年11月に全幕公演が2回あり、両方観ている。この上なく素晴らしい、というところまで行ってはいなかったがとても良かったし、元々好きなこの二人、それぞれに役に嵌っており今後も観てみたいと思っていた。
Gala des Étoilesにムッルの出演が決まった時に行くことを決めたが、チケット売り出しの時点ではギエムの名前もあり、それが数日で消えたときは落胆した。演目の詳細が出て、「さすらう若者の歌」と「オネーギン」、それも最後のPDDなら何の不足があろうかと、「オネーギン」はボッレが踊るような気がしていたので、ムッルのオネーギンが再び観られるならもう何もかもどうでもいいとすら思っていた。

全幕の物語のうねりのなかで観るのと違い、PDDだけを抜き出して観るときはすこし冷静である。
手紙を手におののき、グレーミンとのやり取りはなしにひとりオネーギンを迎える決意を固めなければならないタチヤーナ。紗幕の向こうでは苦悩と逡巡のなかのオネーギン。モンタナーリは確信を与えてくれる強さにすこし欠け、迷いが感じられたけれどそれはタチヤーナの迷いなのか。駆け込んでくるオネーギンの駆け込み方にも切実さが足りないが、二人のやりとりが始まるとすべては吹き飛んで、世界に引き込まれる。
それでもすこしは落ち着いてひとつひとつの動きを追う。その時はここでこうやって求め、揺れ、拒絶し、求め、苦悩し、逃げ、求め、手を取ってしまうのか、とすこし引き加減に確認しつつ、引きずりこまれつしていたものが、やはり細かく振付を記憶しているわけではないので、ひとつひとつ納得したとしか言えない。もどかしい。
PDDだけではあったが、ムッルの全身投げ出しっぷりには更に磨きがかかっていた。あのデ・グリュの後だけある、とでも言いたくなる。全身で悲痛な叫びを絞り出しつつタチヤーナを求める。彼の目にはタチヤーナしか映らない。タチヤーナのどんな変化も見逃さない。隙あらばここから連れ出そうと油断のかけらも見せない。強引さと狂おしい愛情がせめぎあう。私ならタチヤーナにはなれない。不幸が待っているかもしれないとわかっていてもこの瞬間の愛するオネーギンの求めに身を任せないでいることなど出来ない気がする。それほどムッルのオネーギンは心かき乱してくれた。それに対しモンタナーリはすこし弱かったかな、という気がしないでもない。

「オネーギン」というこの特別な作品には過去の名演、名カップル、こうあるべき、こうでなければというものがあまた存在する。ムッル以外のオネーギンをこれからも観るだろうが、すぐにまた観たいのはムッルの全幕である。
スカラ座の2011-2012シーズンには「オネーギン」が再び掛かるのに、ムッルにはチャンスがないというのはどうやら本当らしい。どうか今ひとたび、彼にチャンスが訪れることを切に願う。

全幕ではなく演目はたったふたつ、それを2回だけだったが満足感は大きかった。ムッルは充実していた。「オネーギン」ではほとんど踊らないが、「さすらう若者の歌」では再び、彼の動きそのものにも魅了された。やはり彼は美しい。あの正統的でないアンバランスな身体の表情が好きなのだ。全幕よりこのような形の方が彼には余裕が出るのかもしれない。勿論全幕の方が観たいけれど。また今回他のスカラ座ダンサーの演目を観て、エトワールはエトワールであることを痛感した。

ボッレとムッルが同じ作品の中で、それも対峙して踊るのを見たのは初めてだった。「さすらう若者の歌」でこの二人の組合せにおいて役柄の逆転は不可能だろう。スカラ座が誇る二人の男性エトワールは余りにも違う個性を持っている。ボッレが太陽ならムッルは月。舞台の上でも舞台の外でも何もかもが違う二人。ボッレがイタリアの国民的スターであり、その社会的立場と影響力も考えた行動をとり、ユニセフの親善大使まで務めているのに対し、ムッルはメディアに出るのを嫌い引きこもる。自分が何を考えているか、これからどうして行きたいかをきちんと発信し、先の仕事を自ら切り開いていくように見えるボッレに対し、ムッルは何も語らず、スカラ座の舞台とわずかな他の仕事を座して待っているように見える。

それはファンとして当然歯がゆい。日本の主要な招聘元に重用されるダンサーたちのように、芸術性と人間性に優れ、オープンで、後進を育てることにも公演を組織することにも、劇場を監督し、はたまた創作することにも才能を発揮できる、全方向に秀でた人間であることが一流の証である、というような価値観にどうしても侵食されている。
それを否定するつもりはない。でも一流でなくてもいいではないか。マッシモ・ムッルは世界にたった一人しかいない。そのたった一人からしか受け取れない時間がある。もう十分に幸せなのだから、彼の行くところにただついて行こう、行けるところまで。人の心は移ろいやすいものだけれど。

公演感想2011 | 【2011-05-05(Thu) 00:54:18】
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