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Author:homia
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2004年春、山岸涼子の「テレプシコーラ」を読み
同年8月東京バレエ団40周年記念ガラからバレエに通い始める
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ミラノ・スカラ座バレエ Gala des Étoiles 4月27日、29日 ムッルの演目編
Roberto Bolle - Massimo Murru
Chant du compagnon errant

Coreografia:Maurice Béjart
Musica:Gustav Mahler
Lieder eines fahrenden Gesellen
Baritono:Christopher Maltman

ようやくボッレとムッルの「さすらう若者の歌」が実現した。当初は2009年12月、2009-2010シーズンのバレエ・オープニング「Serata Bejart」で実現するはずだったが、ボッレの故障によりその時の相手はガブリエーレ・コッラード。その公演も観ているが感想は残していない。ムッルが青のレオタード、ボッレが赤のレオタード。二人の男は向き合い、対話し、共に歩み戯れ、やがて対立し、青の男は赤の男に飲み込まれるように闇に連れ去られる。二人は別人か、赤の男は分身か。二人のダンス、表現における力量の拮抗が欠かせない作品だが、主となるのは青の男である。
2009年のコッラードとの共演のときはムッルの内面の表現が際立ちそれは素晴らしかったが、対する赤の男の存在に弱さを感じた。ボッレという対等以上のパートナーを得て作品の世界はバランスよく提示され、ムッルの表現は更に深まったと感じた。

どこか頼りなく何か、おそらく希望や生きる意味や幸せを求めてさまよう青の男。両腕を前に差し伸べ、片足も前に出してプリエをし、次に鳥が羽ばたくように開いてから2番の深いプリエ、片腕は肩にうつむく。この冒頭の動きは何度も繰り返し出てくる。その前に差し伸べられる腕に静かな希求を感じ、はばたきの優雅さに魅せられ、深いプリエの沈痛な表情が胸を刺す。後ろに、傍らにいる赤の男を常に感じながら、一筋の光を手にした気になり、穏やかな表情を表向きは見せていながら心は許していない赤の男と共に楽しげに歩み、生きることの歓喜を投げキスで放つ。青の男は赤の男の隠しているものにその時は気づかずに、心の底から嬉しそうな表情をしている。それが幻であったことにすぐ気がつくけれど。確信を持ってひたと追ってくる赤の男。違うだろう、そこには何もないんだ。抗う青の男。二人の対立。勝利を収めるのは赤の男。輝きを取り戻そうと心のうちを探し再び投げキスを放つ青の男の哀れさ。最後は弱々しく赤の男に手を引かれて暗闇に消えていく。

そのひとつひとつの内面の移り変わりをムッルは全身の表情で余すことなく表現しきった。追いつめられる、受け身の側がこの人にはどうしても嵌る。そして追いつめるのは生けるギリシャ彫刻のボッレ。ボッレの表現は抑え目で、それがかえって不気味にしのびよる強さを感じさせてとても良かった。ムッルを偏愛する自虐的ファンとしては、若干衰えも感じさせる彼のテクニックとボッレの正統的で美しいテクニックが対比されたらどうなるだろうと心配していたが杞憂に終わった。それは勿論好みの分かれるところだろうが、ムッルのアラベスクもピルエットもシンプルなプリエですら、彼は彼の美しさを保って引けを取らなかった。見劣りなどしなかったのだ。求め追いつめられ抗う者の、見る者の胸を打つ身体がそこにあった。ボッレと比べれは細く薄い上半身、バランスとして長すぎる腕と脚。いつだってそこにどうしようもなく惹き付けられてしまう。

男性二人によって演じられるこのすこし特別な作品に、この二人の組合せと今のタイミングは時宜を得たものといえるし、二人は心に触れる世界を見せてくれた。再びのチャンスをGala des Étoilesという最良の機会に用意してくれたスカラ座には拍手を送りたい。その場に居合わせることが出来た幸運には感謝を。


Emanuela Montanari - Massimo Murru
Onegin
Pas de deux - Atto III

Coreografia:John Cranko
Musica:Pëtr Il'ič Čajkovskij

モンタナーリのタチヤーナ、ムッルのオネーギンで2010年11月に全幕公演が2回あり、両方観ている。この上なく素晴らしい、というところまで行ってはいなかったがとても良かったし、元々好きなこの二人、それぞれに役に嵌っており今後も観てみたいと思っていた。
Gala des Étoilesにムッルの出演が決まった時に行くことを決めたが、チケット売り出しの時点ではギエムの名前もあり、それが数日で消えたときは落胆した。演目の詳細が出て、「さすらう若者の歌」と「オネーギン」、それも最後のPDDなら何の不足があろうかと、「オネーギン」はボッレが踊るような気がしていたので、ムッルのオネーギンが再び観られるならもう何もかもどうでもいいとすら思っていた。

全幕の物語のうねりのなかで観るのと違い、PDDだけを抜き出して観るときはすこし冷静である。
手紙を手におののき、グレーミンとのやり取りはなしにひとりオネーギンを迎える決意を固めなければならないタチヤーナ。紗幕の向こうでは苦悩と逡巡のなかのオネーギン。モンタナーリは確信を与えてくれる強さにすこし欠け、迷いが感じられたけれどそれはタチヤーナの迷いなのか。駆け込んでくるオネーギンの駆け込み方にも切実さが足りないが、二人のやりとりが始まるとすべては吹き飛んで、世界に引き込まれる。
それでもすこしは落ち着いてひとつひとつの動きを追う。その時はここでこうやって求め、揺れ、拒絶し、求め、苦悩し、逃げ、求め、手を取ってしまうのか、とすこし引き加減に確認しつつ、引きずりこまれつしていたものが、やはり細かく振付を記憶しているわけではないので、ひとつひとつ納得したとしか言えない。もどかしい。
PDDだけではあったが、ムッルの全身投げ出しっぷりには更に磨きがかかっていた。あのデ・グリュの後だけある、とでも言いたくなる。全身で悲痛な叫びを絞り出しつつタチヤーナを求める。彼の目にはタチヤーナしか映らない。タチヤーナのどんな変化も見逃さない。隙あらばここから連れ出そうと油断のかけらも見せない。強引さと狂おしい愛情がせめぎあう。私ならタチヤーナにはなれない。不幸が待っているかもしれないとわかっていてもこの瞬間の愛するオネーギンの求めに身を任せないでいることなど出来ない気がする。それほどムッルのオネーギンは心かき乱してくれた。それに対しモンタナーリはすこし弱かったかな、という気がしないでもない。

「オネーギン」というこの特別な作品には過去の名演、名カップル、こうあるべき、こうでなければというものがあまた存在する。ムッル以外のオネーギンをこれからも観るだろうが、すぐにまた観たいのはムッルの全幕である。
スカラ座の2011-2012シーズンには「オネーギン」が再び掛かるのに、ムッルにはチャンスがないというのはどうやら本当らしい。どうか今ひとたび、彼にチャンスが訪れることを切に願う。

全幕ではなく演目はたったふたつ、それを2回だけだったが満足感は大きかった。ムッルは充実していた。「オネーギン」ではほとんど踊らないが、「さすらう若者の歌」では再び、彼の動きそのものにも魅了された。やはり彼は美しい。あの正統的でないアンバランスな身体の表情が好きなのだ。全幕よりこのような形の方が彼には余裕が出るのかもしれない。勿論全幕の方が観たいけれど。また今回他のスカラ座ダンサーの演目を観て、エトワールはエトワールであることを痛感した。

ボッレとムッルが同じ作品の中で、それも対峙して踊るのを見たのは初めてだった。「さすらう若者の歌」でこの二人の組合せにおいて役柄の逆転は不可能だろう。スカラ座が誇る二人の男性エトワールは余りにも違う個性を持っている。ボッレが太陽ならムッルは月。舞台の上でも舞台の外でも何もかもが違う二人。ボッレがイタリアの国民的スターであり、その社会的立場と影響力も考えた行動をとり、ユニセフの親善大使まで務めているのに対し、ムッルはメディアに出るのを嫌い引きこもる。自分が何を考えているか、これからどうして行きたいかをきちんと発信し、先の仕事を自ら切り開いていくように見えるボッレに対し、ムッルは何も語らず、スカラ座の舞台とわずかな他の仕事を座して待っているように見える。

それはファンとして当然歯がゆい。日本の主要な招聘元に重用されるダンサーたちのように、芸術性と人間性に優れ、オープンで、後進を育てることにも公演を組織することにも、劇場を監督し、はたまた創作することにも才能を発揮できる、全方向に秀でた人間であることが一流の証である、というような価値観にどうしても侵食されている。
それを否定するつもりはない。でも一流でなくてもいいではないか。マッシモ・ムッルは世界にたった一人しかいない。そのたった一人からしか受け取れない時間がある。もう十分に幸せなのだから、彼の行くところにただついて行こう、行けるところまで。人の心は移ろいやすいものだけれど。

公演感想2011 | 【2011-05-05(Thu) 00:54:18】
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東京バレエ団 マカロワ版「ラ・バヤデール」 4月17日 東京文化会館
小出さんのニキヤがとにかく観たくて取っていたチケット。まさかゼレンスキーのソロルが観られるとは思ってもいなかったし、木村大僧正というとんでもない展開まで待ちうけているとは。ニキヤとソロルがしっかりと物語を紡ぎ、囲むガムザッティと大僧正も充実してとても見応えがありました。ニキヤだけが良くても、ソロルだけが良くてもダメ、両方共に良く通い合っていなければ。ゼレンスキーは存在感が大きいので、そのあたりはちょっとアンバランスに感じましたが、二人の物語がきちんとありました。とてもいい舞台で、全幕の満足感をしっかりと味わえました。

小出さんの何が素晴らしいって、安定して確実な、アダジオもアレグロも自在なテクニックの上に音楽性と感情の豊かさが乗り、舞台の空気が気持ちよく動くということ。呼吸を合わせて目に快く、はっとしたりうっとりしながら見つめていることができるのです。ああ、ダニール・シムキンとのドン・キも観ておくのだった、次の白鳥は手配済みだぞよかった、などとひとりごち。

登場のベールをかぶったままの歩みの一歩一歩からして違います。神殿の舞姫の神秘的な、抑制の効いた存在感。最初の踊りはその延長のもの。続くソロルを待つソロは恋する乙女。なかなか情熱的に甘やかな視線で見つめるゼレンスキーのソロルとの逢瀬は幸福感に満ち、愛され満たされている女性の放つ色香もあり。官能的なひととき。柔らかく雄弁な上半身の動きがそれを語ります。小出さんにはゼレンスキーは少々背が高すぎるようで、危なげなくサポートされているものの、その身長差が少々恨めしくも感じましたが、大きくしっかりと支えてくれるゼレンスキーの腕の中で、旋回する風に揺れている可憐な一輪の花といった風情。

ニキヤとガムザッティとの対決はこの日も見応えがありました。ガムザッティの足元に控え腕輪を示された時の、柔らかいながらもしっかりとしたニキヤの拒絶。小出さんのニキヤはガムザッティとは明らかに違う世界に自分は生きていて、うらやましいとは思わない、というのが強く出ていました。既にソロルとの愛に生きることを決めているからぶれないのです。その拠り所が揺らいだ衝撃。誓ったことを告げる時の強さ。逃げ惑いナイフを取ってしまうまでが自然でした。

婚約式での踊りでは全身で泣き叫んでいるのが伝わりました。ソロルに恨みの感情があるわけでも、責めている訳でもなく、ただただどうしようもなくて悲しい。どうして?という感情すら見えなくて悲しみだけ。胸が痛くなりました。小出さんのニキヤはソロルがどうしようもない立場であることをわかっていて、きっと彼は自分を思ってくれていると信じる気持ちもある、でもそこはやっぱり揺れてしまう。そうでなくて何故、ソロルからと言われた花篭にあれほど喜びの気持ちを表現できるでしょうか。

大僧正に解毒剤を示されて、小出さんは一瞬明るい表情を見せました。これで助かるのかもしれない、そうして振り返れば去っていくソロルの後姿。今際の際にある自分を置いて去っていく恋人の姿。そこで彼女はソロルに絶望したのか、事態に絶望したのか。

第2幕の影の王国では割と体温を感じる存在感。生身ではない、幕の向こうの影、という感じが基調をなしているのですが、ソロルとの最初の部分では思いが見えました。テクニックは冴え渡っていたのではないでしょうか。ふんわりゆったりした踊りの印象が強かったのですが、凄まじい高速回転その他気迫がこもっていました。

第3幕、結婚式に登場したニキヤはソロルに向かって、「思い出して、誓ったことを」というマイムをします。それが鋭く責めているのではなく、まさに「思い出して(私のところに来て)」と言っているのだとつながったのは、神殿が崩壊した後、白いベールを掲げてソロルを導く姿を見て。小出さんは幸せな表情をしていました。やっと愛する人が私の元に帰ってきてくれた、とでもいうような。彼女はソロルの誓いを信じ、最後の最後にやはり結婚はできないと拒絶しようとしたソロルは、死を持って許され彼女の元に行くことができたのだと。ニキヤはずっとソロルを信じていた、信じていたかった。だから解毒剤を拒絶した絶望は彼へのものでもあるけれど、より事態へのものでもないのかと。

そんなふうにニキヤの行動とソロルの行動を一本に繋げるように考えたことはこれまでなかったので、このような見方もできる事をもたらしてくれた小出さんとゼレンスキーは見事というほかはありません。これこそ全幕の物語のあるバレエを観る醍醐味。

さてそのゼレンスキー。若い頃の彼には間に合っていないので、2006年のマリインスキー来日公演時に「海賊」のアリとロパートキナとの「白鳥の湖」を見たきり。「海賊」はメドーラがソーモワ、コンラッドがロブーヒン、ランケデムがシクリャローフという周りが若く(青く幼い)、存在感の大きい彼がどうにもこうにも浮きまくるキャスティングでした。ロパートキナとの白鳥は素晴らしかったけど、何しろロパートキナに注目してしまって、確かに素敵だけど峠を越えたベテランかなと。
確かに若いダンサーではないけれど、その時より踊りは調子が良かったように感じました。出てきて舞台を歩くだけで、ちょっと跳ぶだけで、いや振り返るだけでも、「ああロシアの男性ダンサーの美しい身のこなし、うっとり」状態です。プティパの全幕の真ん中男子はやっぱりロシアがいいー!もう日本で踊ることはないかも、ましてや全幕など、と思っていた彼を当たり役のソロルで観られたなんてなんと幸せなことか。
ふわっと浮き上がる、重心の高い、などと形容されるジャンプの美しさも堪能しました。踊りが大きくゆったりたっぷりしており、止める所決める所は決して外さず、回れば軸は微動だにしない。柔らかい足音のしない着地、しなやかに脚が伸びて進んでいくマネージュ、眼福の一言に尽きます。

ニキヤとの逢瀬では予想外に情熱的で甘い視線がたっぷりだったのでそれは少しびっくりしましたが、頼りになる優しい恋人は魅力的でした。深刻な事態に投げ込まれてからはゴールディングのような自然な若者らしさではなく、苦悩の色が濃かった。ガムザッティを紹介されて美しさにはっとする、という演技はありましたが、その前、彼女が歩みを進めてくるところで彼女を見ていません。額に手をやり進行しつつある現実に既に苦悩している。礼を失しない程度にエスコートもすれば、向かい合って座りもするけれど、ほとんど会話をしない。チェスもしない。この展開をどうしたらいいのだという悩みに沈みそうになるのをなんとか失礼のないようにと押しとどめてガムザッティと向かい合っている。
婚約式のニキヤの踊りのところでも苦悩が顕わ。つまりこのソロルはガムザッティには惹かれていなくて、選択の余地のないところで苦悩し続ける。そして最後にやっと違う選択をしようとする。これもまたきちんと説得力がありました。

ニキヤとソロルのドラマの濃さは前日キャストを軽く上回っていたこの日、更に特濃の存在感を放っていたのが木村さんの大僧正。この日は1階前方センターで視界も良好。下手に大僧正、上手にニキヤとか、上手にソロルとガムザッティ、真ん中にニキヤでもばっちり捉えられました。勿論目は数が足りないという感じですが。
木村さんは冒頭の登場からしてニキヤへの道ならぬ思いを秘めているのを感じさせました。こちらがそれを知っていて見ているのもあるかもしれないけど、瞳の色に神に仕える身であることを逸脱しているものが映っているのです。ニキヤを呼べと言ってしまってからのおののき。既にオーバーフロー寸前だった彼のニキヤへの恋情。呼んでしまえば何かが起きてしまう、そう予感している。でも止める事がもう出来ない。ニキヤのベールを取る前には2回も逡巡。そんな大僧正は初めてです。ベールを取って彼女を見てしまったら、もう引き返せない、自分の想いは溢れてしまうだろう、それがわかっている。さらには人目もはばからずベールをいとおしみ身悶えます。
ニキヤに狂おしく迫り想いをぶつける。彼女に拒絶され、大僧正の座も捨てると被り物を取り差し出す。信じられない、神に仕える身でとニキヤに責められても再度想いを捧げるマイムが入る。ここもまた、ここまで一途に想いを差し出そうとする大僧正はあまり見たことがないと感じました。木村さんのヒラリオンにも通じる、相手には受け入れられないのに深い純愛路線。決まっていたようなものですが、またまたまんまとノックアウトされました。
ニキヤとソロルの逢瀬を見てしまった後の、復讐を誓うところの激しさ、ニキヤへの執着、ストレートにびゅんと飛んできてわかりやすいわ、やっぱり純愛ヒラリオン型大僧正~と幕が下りた後ひとりくつくつと笑ってしまいました。こういう木村さんを見ているのが何よりも幸せ。

ラジャに告げてニキヤを殺すと言われるところでは、ソロルへの憎しみよりニキヤが亡き者にされることへの衝撃が大きい。
婚約式、ニキヤが踊るところではラジャの様子を伺い、花篭の指示が出たらすかさずマグダヴェーヤに解毒剤を用意させる、このあたりをしっかり把握できたのは久々でした。その事態に陥ることを何よりも恐れていた大僧正。でも彼の愛はニキヤを救うことは出来ない。本当にヒラリオンと同じなのだと改めて実感します。いやあ見応えがありました。次回の再演時にはまた大僧正もやって欲しい。東バで木村さんに大僧正をやらせなくてどうする、というものです。

他にもいろいろあるのですが、例えば松下さんのマグダヴェーヤが思いのほか良かったとか(実は彼はあまり得手でない)、この日も田中さんのガムザッティは良かったとか。

何はともあれ、この時期にきちんと代わりのゲストを呼んでくれ、ダンサーも来てくれて、充実した舞台を見せてくれたことには感謝のほか言葉がありません。
一筋縄で行く様な状況にない日本、その中にある自分。でもバレエを愛することは止められません。そんな気持ちにさせてくれた公演でした。

振付・演出:ナタリア・マカロワ(マリウス・プティパ版による)
振付指導:オルガ・エヴレイノフ
装置:ピエール・ルイジ・サマリターニ
衣裳:ヨランダ・ソナベント

◆主な配役◆

ニキヤ(神殿の舞姫):小出領子
ソロル(戦士):イーゴリ・ゼレンスキー
ガムザッティ(ラジャの娘): 田中結子
ハイ・ブラーミン(大僧正): 木村和夫
ラジャ(国王):柄本武尊
マグダヴェーヤ(苦行僧の長):松下裕次
アヤ(ガムザッティの召使):松浦真理絵
ソロルの友人:森川茉央
ブロンズ像:宮本祐宜

【第1幕】

侍女たちの踊り(ジャンベの踊り):西村真由美、乾友子
パ・ダクシオン:
佐伯知香、森志織、村上美香、河合眞里
高木綾、吉川留衣、矢島まい、川島麻実子
長瀬直義、宮本祐宜

【第2幕】

影の王国(ヴァリエーション1):岸本夏未
影の王国(ヴァリエーション2):佐伯知香
影の王国(ヴァリエーション3):乾友子

公演感想2011 | 【2011-04-18(Mon) 23:36:16】
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東京バレエ団 マカロワ版「ラ・バヤデール」 4月16日 東京文化会館
こんな時期に日本に来てくれるゴールディングを感謝の気持ちと共に見たく、キャスト変更発表後にチケットを追加して観に行きました。
1階席割と前のほうの上手ブロックでしたが、17日に正面から見てみて、やはり情報量は違うと実感。前列に少々背の高いお方がいたので1幕の大僧正下手定位置とか、3幕のソロル下手定位置が見えなかったのもちょっと痛かった。運ですから仕方ありませんが。

ゴールディングは脚まわりの柔らかさが印象に残りました。たくましすぎない程度に上半身もあり、脚は長く、お顔は小さくなかなかハンサム、全体にとてもバランスのいい体型です。テクニックは安定していて、サポートもまずまず、何より舞台に居るときの存在感の自然な優しさが魅力的。その好感度の高い青年ぶりのままの、無理のないソロル像。ニキヤを愛しているけれど、ガムザッティにもなんだか惹かれちゃう。ニキヤとの逢瀬ではラブラブ光線だし、ガムザッティとは案外にこやかにチェスをしてしまう。決断のできる状況でもないけれど、流され続けます。最後の最後にやっぱり結婚できない、誓ったのだから、というところで大僧正に無理やり跪かされて寺院崩壊。昔はソロルという男が大嫌いでしたが、最近は極めて寛容。そうなの、辛いとこね、仕方ないわねと受け入れています(笑)
ゴールディングもちっとも嫌な感じがしなくて、迷い続ける優柔不断な優しさがリアルに迫り、納得させられてしまいました。

踊りは特に回転系がクリア。ジャンプの最後のつじつまあたりはもう少しでしょうか。マカロワ版のソロルの映像その他残像というとロベルト・ボッレだったりして、比べればテクニックキレキレではないのだとは思いましたが、そもそもそういう比較の基準を持っていること自体いかがなものなのか、と今回思いました。日本に居て選りすぐられた海外ダンサーの舞台を見ていると、サラファーノフあたりのテクニックが当たり前のようになってしまう。確かに目を見張るようなテクニックも魅力的ですが、全幕の人物を演じている限り踊りもその中のもの。最低限もしくはそれに余裕を持たせるレベルをクリアしている必要はありますがそれ以上はプラスアルファ。ゴールディングは十分にソロルの思いや叫びや悔恨を踊りの中にこめていて、そのクオリティもなかなかのもの。そういう良さををもっと評価したり受け取った方がいいのではないかと思った次第。

で、平たく言うとゴールディングはとても素敵でした。目尻を下げながらうきうきと見つめていました。本当に良くぞ来てくれたと思います。とても丁寧に愛情を持って舞台を務めているのを感じました。制止を振り切り不安を抱えつつも今回来てくれて、素晴らしい舞台を見せてくれた彼には次の日本で踊るチャンスをオファーして欲しい。ありがとうだけではなく、彼には実力と魅力がある。バジルでもジークフリートでもアルブレヒトでもいいと思います。そうそう、彼が主演しているオランダ国立バレエのラトマンスキー版「ドン・キホーテ」DVDを手に入れなくては。

上野さんは等身大の現代のお嬢さんの延長のニキヤでした。恋する可愛い女の子。
印象に残っているのはガムザッティとの対決シーン。とても真に迫って見応えがありました。
もう少し音楽を感じさせてくれて、踊りが役の感情の表出になりきっていればいいのになあと。

ガムザッティ4連投になってしまった田中さんは堅実。彼女の崩れない踊りや、きりっとしたところ、感情表現が豊かになってきたところもお気に入りですが、惜しむらくは華やかさが足りない。ラジャの娘の威厳や高慢さ、輝きはきちんとあるけれど、人前で演ずる人たちによく言われる“華”があまりない。こればかりは努力でつくものでもないような気がします。でもとても好きなダンサーなのでこれからも応援モードで期待を持って見続けます。

後藤さんの大僧正、ニキヤとソロルの密会後、去っていくソロルを追うようにして走り出てきたところが強く印象に残りました。慌てふためき我を忘れて駆け出す、目に焼きついた生脚の脛。大僧正の豪華な衣が乱れて見えてしまった、その激しさに。その後の復讐を誓うシーン、わかりやすくて思わずひとり笑いがこみ上げてきたほど。

ゴールディングに魅せられ、群舞その他ソリストもなかなか、全体に楽しめた公演でした。何よりあの震災後初めての全幕バレエ鑑賞。日本の将来への不安、原発と続く地震への不安、何もできないようなもどかしさ、自分の中でも感情の浮き沈みがいろいろとあり、沈んでしまった時には、もうなにもかも忘れて、昔に戻って美しい全幕バレエの世界でうっとりしたい、そう切望してしまった瞬間もありました。もう戻れないのはわかっています。でも日常も音楽も舞踊も芸術全般も続くのです。

振付・演出:ナタリア・マカロワ(マリウス・プティパ版による)
振付指導:オルガ・エヴレイノフ
装置:ピエール・ルイジ・サマリターニ
衣裳:ヨランダ・ソナベント

◆主な配役◆

ニキヤ(神殿の舞姫):上野水香
ソロル(戦士):マシュー・ゴールディング
ガムザッティ(ラジャの娘): 田中結子
ハイ・ブラーミン(大僧正): 後藤晴雄
ラジャ(国王):木村和夫
マグダヴェーヤ(苦行僧の長):高橋竜太
アヤ(ガムザッティの召使):松浦真理絵
ソロルの友人:柄本弾
ブロンズ像:松下裕次

【第1幕】

侍女たちの踊り(ジャンベの踊り):矢島まい、川島麻実子
パ・ダクシオン:
高村順子、岸本夏未、阪井麻美、大塚怜衣
西村真由美、乾友子、小川ふみ、二階堂由依
柄本弾、森川茉央

【第2幕】

影の王国(ヴァリエーション1):岸本夏未
影の王国(ヴァリエーション2):佐伯知香
影の王国(ヴァリエーション3):高木綾

指揮: ワレリー・オブジャニコフ
演奏: 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

公演感想2011 | 【2011-04-17(Sun) 23:09:58】
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ミラノ・スカラ座バレエ「マノン」1月27日、29日(3)
Manon201101_2.jpg

第3幕
ニューオーリンズの港。
降ろされた娼婦たちの踊り。弱い。動きが小さく中途半端に感じる。
看守はジャンニ・ギスレーニ。苦みばしったちょっと怖い感じの風貌で演技力もある彼にはぴったり。
デ・グリュが先に船を降り、マノンも続く。第1幕の登場のとき、マダムのサロンに登場したときと同じマノンのテーマが流れる。髪も切られぼろぼろのなりをして打ちひしがれていても、マノンはまわりの男を魅了する。早速看守の目に止まりちょっかいを出されるマノンを前に無力なデ・グリュの踊り。彼には最早マノンを心配すること、そばについていることぐらいしか出来る事がない。彼の変わらぬ愛と無力さに打ちのめされる。

看守に連れて行かれ対峙するマノン。拒絶は強いがやがてねじ伏せられる。マクミランに特有の性的暴力性の強い場面。わかっていてもやはり戦慄が走る。ここの旋律が煽るものでなく静かな悲しさを湛えたものであるのだけが救い。ギスレーニはやりすぎでなくてホッとする。十分に欲情と暴力と権力の行使を感じさせるものではあったが。ギエムは反抗するところが強い。
ブレスレットを与えておまえは娼婦だとつきつける残酷さ。ブレスレットにおびえるマノン。
娼婦の扱いを受けたことが、なのか、ブレスレットだからなのか。そこがまだよくわからない。両方なのか。マノンにとってブレスレットというものはGM、殺されたレスコー、今の自分につながる象徴的なものなのか。

かけつけたデ・グリュはマノンに再び言い寄っている看守を認めて逆上、ナイフを出して後ろから彼を突き刺してしまう。殺意があったというよりただ目の前のことに我を失っただけで、すぐに我に返りナイフを取り落とし呆然としつつ踊る。まるで救いを求めるように。
先に現実を直視したのはマノンの方で、デ・グリュが落としたナイフを拾い上げデ・グリュに示し、動かぬ看守を確かめ、逃げ出すことを促す。デ・グリュもうつぶせに倒れていた看守を仰向け、動かぬことを確認してから逃げ出す。この短い間にマノンがデ・グリュに何故、刺してしまったの?と責めているのを感じるのだがどうなのだろうか。ここではマノンの方が余程しっかりしている。

沼地。横たわる二人の向こうを行き過ぎる人々のことは見ていなかった。
マノンをそっと横たえ、うなされ続け時に何者かにおびえのがれようもがく彼女に絶え間なく優しい愛撫を与え抱きしめ守ろうとするデ・グリュ。ここのムッルは感動的だ。
最後のPDD。目に力なく表情が読み取れない、憔悴しきったギエムのマノン。踊りだけは脱力が効いていながらもクリア。初日の方が力なさが際立ち、2日目の方が力を感じた。2005年のスカラ座の公演ではここでギエムの落下(つまりムッルが落とした)があったので初日はすこし心配しつつ。リフトは両日とも破綻せず、きっちりと決まっていたと思う。よろよろと先も見えていないような状態になりながら、最後はデ・グリュの元に走って頼っていく、身を預けるマノンととればいいのか、他に選択肢がなかったととればいいのか。そこはまだ迷っている。

ノイマイヤーの「椿姫」で愛するデ・グリュの腕の中で息を引き取るマノンと、ひとり死んでいくマルグリットを対比させているように、確かにマノンは自分をどこまでも愛してくれるデ・グリュの腕の中で死んでいく。それはマノンも望んでいたことなのか。マノンもデ・グリュを愛していたと思うけれど、二人のそれはすれ違っているようにも感じてしまうのだ。
マノンは死んでいく、自分には何も出来ない。これからはもうマノンは共にいない。デ・グリュの嘆きはわかる。あれほど愛したマノンが最後は自分の腕の中で死んでいく、それはデ・グリュの不幸で幸福ではないかと思ってしまう。

ギエムがだんだん意識のはっきりしなくなる状況を抑え目に演じていたのに対し、ムッルの没入振りは凄まじかった。初日の最後の最後、もう動かなくなってしまったマノンを横たえ確かめた音楽の高まりの中に人の声が混じっている。え?と思ってすぐにわかった。ムッルが声を上げて泣いているのだ。初めて聞いてびっくりした。まさに絶叫。天を振り仰いでいる中に幕がおりていく。
2日目はもう、立ち上がって踊りだすところで顔が歪み泣き出しているのがわかってしまった。彼は2時間40分の間夢中でわき目もふらずにマノンに恋し、愛をささげ、今その死に直面して身も世もなく泣き叫ぶ。2日目も最後に横たえたところで号泣し、天を振り仰いで再びマノンに身を伏せていくところで幕。この2日目の最後は容赦なく胸を打った。

こういう物語バレエの悲劇的エンディングでは、それがムッルの舞台であればなおさら最後に向けてぼろぼろに泣いてしまうのだが、今回はそれほど泣かなかった。デ・グリュの悲しみには同調しつつ、どうしてもマノンはどうなのだろうという意識が残ったからかもしれない。泣かないでしっかり目に焼き付けなさいと自分を叱咤した部分もある。
明確なひとつの答えのようなものをもらったわけではないけれど、ギエムとムッルの踊りと演技のクオリティ、その生き抜く様、伝える強さにおいて大きく心動かされた2回の公演だった。
他のスカラ座バレエに関して言えば物足りなさが残るけれど、二人を見るだけで補って余りある。

しかし依然としてマノンはミステリアスだ。


カーテン・コール、その他
まず第1幕のマノン登場のところからしてすごい歓声。スカラ座の観客たちも、ギエムを観るために世界各国から集まったらしいファンたちも、彼女の登場を待ちわびていた様子。大きな拍手とさらに声がかかります。スカラ座では登場拍手がないこともあるし、あっても控えめなのでこれは破格です。
マノンとデ・グリュのPDDが終わるたびにこれまた大拍手とブラボーがかかりました。第2幕のマノンのソロの後も凄かったです。
終演後のカーテン・コールもまた大喝采。こちらのアンコールは日本ほどしつこくないので、大体2回ぐらいであっさりと客電がつき皆帰っていくのですが、今回は違いました。2回は呼び戻し、最後は客席がこうこうと明るい中で再度二人を呼び戻すと言った具合。勿論全員がそれに従っているわけではなく、帰っていく人はたくさんいるのですが、平土間前方に集まって立ったまま熱心に拍手を送り続ける人たちの群が。日本よりは少ないけれど。そして普通ならこれで終わりの2回の後、手拍子を揃えて一度呼び戻したのが初日でそれが2回に亘ったのが2日目でした。

両日とも幕がおりてから最初に二人だけで向かえるカーテン・コールではまだ現実に戻って来られないムッルを見出しました。
いつも子どものように無垢な心からの笑顔を向けているギエムのカーテン・コールはとても好き。すべてを悔いなく出し尽くした人にのみ許される笑顔ではないかと思うのです。
ムッルもまた満ち足りた良い表情をしていました。ファン冥利に尽きる幸せなひとときでした。

公演感想2011 | 【2011-02-06(Sun) 08:01:12】
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ミラノ・スカラ座バレエ「マノン」1月27日、29日(2)
第2幕
マダムのサロン。レスコーと連れ立ってデ・グリュが登場するまではどうにか群舞を見ていたが、どうも集中力を欠く。それはマノンとデ・グリュにとっておきたいからだ。
マダムはシモーナ・キエザ。悪くはないけれど少々大げさなようにも思う。レスコーの愛人のサブリナ・ブラッツォと印象が似ている。オーバーアクションで色気が過剰。英国ロイヤルバレエ流の裏付けのしっかりした演劇的な表現の方が好み。
スカラ座の群舞は女性の方が弱く感じる。ロイヤルバレエの映像や、2005年の来日公演が残像としてあるけれど、もっとクリアで動きが大きかったと思う。
つまりは男の子しか見ていないのだろうと言われれば返答に窮するが、3人の紳士などは悪くない。マッシモ・ガロン君真ん中で健闘。

レスコーとデ・グリュがやってくる。二人とも美しい縫い取りのある上着。マノンをGMに渡すことで得たお金のもたらしたもの。レスコーは相当に出来上がっていて、剣を預けてからふらふらと踊り始める。デ・グリュはずっと心配そうに見守っている。勿論女たちはほっておかない。入れ替わり立ち代わりちょっかいを出しに来るが、デ・グリュは相手にしない。2005年はひたすら拒絶の印象があったが、その時よりかわし方がやわらかくなった。決して相手にはしないが、時にはほんのり笑顔すら見せる。酔っ払いなんか放って置いてもいいのに、なんでデ・グリュはここでこんなにレスコーのことを心配してやるのだろう。実はちょっと不思議に思っている。でもレスコーとその愛人の踊りの見せ場である方は見ずにデ・グリュばかり見ていた。ここから先、マノンが登場してもずっと彼からは目を離すことができない。

マノンがGMに連れられて上手奥から登場。マノンが登場しまわりを魅了する時のあのテーマが流れる。オレンジ色を基調にしたコート。その下は黒と金のゴージャスなドレス、首でしっかり存在感を主張する首飾り。コートを脱ぐ動きすら周りを圧して存在感を放つ。その場にいる誰もが彼女から目を離せない。
デ・グリュは下手に立ち尽くして見つめる。どうしていいかわからない。それでも彼女を見つめ続ける。

立ち尽くすデ・グリュをからかうようにレスコーの愛人が踊った後は3人の紳士が踊り、マノンのソロへ。
実に軽やかに音楽となってギエムは完璧に踊りきり、大喝采を浴びていた。あまりにも易々と戯れるように一気に踊りきってしまうので、あっと言う間。終わったところで我に帰ってあまりのレベルに舌を巻く。マノンが踊る間もデ・グリュはぶしつけと言っていいぐらいに見つめ続け時にかなり近づく。マノンは避ける。そういえばこの作品中マノンのソロは多くない。ここのソロがいちばん長いのではないだろうか。つまりいつも誰かにサポートされている、マノンとは男たちの手から手へと移っていく存在ということなのか。

ソロが終わるとすぐに、文字通りサロンの男たちに次々とサポートされ、高く低く空を舞うシーンが続く。最初にサポートを始めたのはエリス・ネッザ。彼はキャスト表に名前が出ておらず、他のシーンでも見かけなかった気がするので、このシーンのみギエムのサポート要員としての参加か。ネッザは背が高いのだ。他にサポート頻度と難易度高しと見られたのはガロン君。2日目にそのことに気づき、思わずガンバレと思ってしまった。
デ・グリュは何度も彼女のサポートに加わろうと試み、実際に支えもするが必ずマノンの拒絶にあう。ギエムのマノンは当惑を隠さない。男たちの間を舞っている時は、そういう自分に酔っているようには見えず、どちらかというと表情は抑え目。男たちに賛美され次から次へと違う手に委ねられていくことをただ確認しているように見える。その心に何があるのかはわかりにくくミステリアス。隠さないのはデ・グリュに対する当惑だけだ。

最後は椅子に腰掛けるGMの元に跪くように着地して終わる。するとGMが新しいブレスレットをはめてやる。自慢の愛人が男たちに賛美される魅力を撒き散らしてその場を支配したことに対する褒美のように。新しい美しい宝物を得た瞬間、マノンの目は輝き子どものように無邪気に喜ぶ。GMに甘えかかり、杯を上げる。そこにデ・グリュが闖入。勿論相手にされず、GMには空のクリスタルのボトルを渡され、酒を持ってこいとまるで下僕の扱い。マノンも相手にせず依然として当惑を隠さない。
ここに至るまでに既にマノンから拒否され、彼女を運ぶ男たちの群にも居場所を得られず、十分に傷つき誇りをずたずたにされているはずなのに、まだここでマノンに近づかずにはいられないデ・グリュ。それほど彼のマノンへの想いは強く断ち切りがたいものなのか。

サロンは酔っ払い集団と化し、一同が別室に一旦引き上げる。デ・グリュはマノンを追い、マノンはうまくGMから離れてなんとなく残る。
言葉にならない、整理もつかないただただ苦しい思慕を狂おしく伝え、身を投げ出すデ・グリュのソロ。ここの旋律が、二人が初めて踊ったPDDのものと同じ。まさに捨て身の激しさに胸をえぐられる。ここのムッルもとても良かった。私が見ているのはムッルではなくまさにデ・グリュでしかない。マノンは当惑のまま、首飾りとドレスを指し示しさえする。私にはこれが必要、困らせないでと。それは今のデ・グリュにはかなえてやれないもの。マノンもデ・グリュに心を動かされていないわけではない。それでも彼女には快適で裕福な暮らしの方が大切。デ・グリュを愛している、でも金ナシの彼の元に戻ってもどうにもならないと自分でわかっているのか。

さらに深く傷つきひとり残されたデ・グリュのソロ。マノンにそこまで冷たくされてもあきらめきれない。苦しい胸の内とあふれるようなマノンへの想いが綴られる。冷静で合理的な判断など髪の毛一筋も近寄る隙がない。ここまでくると感動的でさえある。ここも良かった。何度も繰り返し現れるデ・グリュのアラベスク。長いムッルの脚が水平に伸び、手を差し出す、絶対的なマノンへの愛と絶望。

マノンがレスコーと戻ってきてカードを渡し、いかさまをそそのかす。GMから巻き上げて逃げようと言う訳。GMから何がしかのものを奪えたところで、根本的な解決にはならない、つまりマノンという女は無尽蔵にお金が必要だと思うのだが、この刹那的で浅はかなたくらみにマノンが同調するのがどうもよくわからない。十分なお金さえあれば愛するデ・グリュといる方がいいに決まっているけど、それほど先のことまでは考えないということなのか。現実的で一応堅実な生活をおくっている普通の自分には理解不能。それがマノンと言う女なのか。時代も違うことだし。

ロイヤルバレエのときのいかさまは上着の袖にカードを仕込んでおくやり方だったが、今回はさらに大胆に座った太腿の下にカードを隠している。
デ・グリュはけっこう愉快そうな表情を見せる。マノンのためなら何でもやってしまうのを見せ付けられる。モラルも何もない。
事実が露見しGMと争って負傷させた挙句マノンとデ・グリュは逃げる。残されたレスコーの、倒れたテーブルの陰におびえるように身を伏せてGMを見上げるまなざしが痛々しく印象に残る。

元のデ・グリュの部屋。逃げ出す仕度をするデ・グリュに黒のドレスを身にあてて入ってくるマノン。振り返らない彼にドレスを捨てて近寄り甘える。仕度をしなくちゃと最初はあまり相手にしてやらないが、デ・グリュがかばんに入れたものを出してしまうマノンのいたずらにあい、戯れが始まる。再びの甘美なひととき。GMの鼻を明かし、もらうものはもらって逃げてきた、これからマノンと暮らすのだという自信がデ・グリュには見える。素直に甘えてくれるマノンがいとおしい。ムッルは実に甘くて優しい、自らも息を吹き返したような表情を見せて見る者にせつなさを呼び起こす。
ひとしきり戯れた後、マノンがベッドの支柱に高くさし上げた腕にブレスレットを認め、デ・グリュは詰め寄る。きれいなもの、美しいもの、豪華なものが大好きなマノン。彼女はそういう女なのだからつけさせておけばいい。持っていれば困窮した時にはお金にも出来るだろう。などと私は合理的に考えてしまうのだが、デ・グリュはそうではないらしい。サロンで嘲弄された、マノンがGMのものだった象徴のブレスレットだ。どうしても我慢が出来ないのは当然か。
しつこく外すことをうながすデ・グリュにマノンもまた執拗に言うことをきかない。なんで?気に入ってるんだもん。きれいでしょ。嫌よ。どうして?絶対嫌よ。外さない。
2005年に見たときはここのムッルが暗く怖くて圧倒された。今回はそれほど暗い情念ではなかったが、だんだんに執着が強まっていき、何が何でもはずさせてしまいたいという我を強く感じさせた。ギエムは力で対抗するのではなく最初はからかうようにかわしながら、でも外さないという意志は強い。
最後はデ・グリュが力でねじ伏せてブレスレットを引き剥がし投げ捨てる。うずくまるマノンの顔は納得していない。驚きおびえている。ブレスレットを奪われたこともショックだが、おそらく初めて自分に手荒な振舞いをしたデ・グリュにより衝撃を受けている。そこにGMがレスコーを連行してやってくる。

両腕をつながれ、力なくおびえて小突き回されるレスコー。マノンを守ろうとするデ・グリュ。撃たれたレスコーの手と胸に広がる真っ赤な地の色。高らかに哄笑するGM。激しくレスコーにすがり泣き崩れるマノン。その後ろに呆然と立ち尽くすデ・グリュ。

公演感想2011 | 【2011-02-05(Sat) 23:08:18】
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ミラノ・スカラ座バレエ「マノン」1月27日、29日(1)
Manon201101_1.jpg

Choreography:Kenneth MacMillan
revived by Karl Burnett e Julie Lincoln
From music by Jules Massenet
Orchestration and adaptationLeighton:Lucas
Conductor:David Coleman
Sets and costumes:Nicholas Georgiadis

Manon:Sylvie Guillem
Des Grieux:Massimo Murru
Lescaut:Thiago Soares
Monsieur G.M.:Bryan Hewison
Lescaut’s mistress:Sabrina Brazzo
Madame:Simona Chiesa
The gaoler:Gianni Ghisleni
The beggar chief:Maurizio Licitra
The courtesans:Emilie Fouilloux, Stefania Ballone, Luana Saullo, Raffaella Benaglia, Alessandra Vassallo
Three gentlemen:Daniele Lucchetti, Massimo Garon, Marco Agostino
Five girls:Petra Conti, Jennifer Renaux, Giulia Schembri, Sofia Rosolini, Caroline Westcombe
The clients:Danilo Tapiletti, Andrea Pujatti, Massimo Dalla Mora, Dario Elia, Giuseppe Conte
The prostitutes:Lara Agnolotti, Catherine Beresford, Patrizia Milani, Alessia Bandiera, Chiara Borgia, Alessia Passaro, Stefania Ballone, Licia Ferrigato, Adeline Souletie, Monica Vaglietti, Azzurra Esposito, Serena Sarnataro
Old gentleman:Matthew Endicott
The maids:Silvia Scrivano, Roberta Nebulone
Six beggars:Federico Fresi, Valerio Lunadei, Matteo Gavazzi, Fabio Saglibene, Antonio De Rosa, Marco Messina

当初のキャスト予定ではムッシューGMだったギスレーニが看守に、看守だったHewisonがGMに入れ替わっています。スカラ座オフィシャルの表示もきちんと変更されています。

ギエムとムッルの二人に関して言えば、手放しで素晴らしくまさにミラクルでした。2回共です。
ずいぶんたくさんのムッルの舞台を観てきましたが、ここまで凄かったのは実は久しぶりなのだと初日を観終わって気づきました。
まったく隙なく舞台でデ・グリュを生き切っている。やはりギエムが相手だとこうなるのか、それはギエムの偉大さでありムッルの限界か。誰が相手でもそこまでやって欲しいなあと思いもするけれど、それではパートナーが変わっていく意味がないのかもしれない。正直なところ1幕が終わった時点で、“やっぱりシルヴィが相手だとこうなるのね、いつもここまでやってよー!!”と心の中で叫んでいたのですが。
そうして観終わるころには、この、もう後がないかもしれないギエムとの共演を観られた幸せをかみしめつつ、早くも惜別の感情に襲われ、ムッルのこれからに明るくない思いを抱いてしまいました。
マクミランやアシュトンの物語バレエを演じることにおいて真にムッルを開いたのはギエムだったのではないか。ムッルはノイマイヤー「椿姫」、クランコ「オネーギン」を他のパートナーと踊ったけれど、今でもギエムとの舞台の方が観客を容赦なく巻き込むことが出来る。ギエムの側から、ことにギエムのファンの側から観ればムッルはみそっかすのパートナーでしょう。ローラン・イレール、ジョナサン・コープ、ニコラ・ル・リッシュ。ギエムにとって無二ではないのに、ムッルにとってはおそらく唯一無二のパートナー。そのギエムは今後こうしたものを踊らなくなる。既に2006年からの4年間がそう。ギエムが特別なのはわかっているのにその彼女とはもう踊ることはないかもしれない。今年不惑になるはずの彼の今後に何が待っているのか、彼はどこに進んでいくのか。
それでもこの人を見続けることをまだ止められないけれど。

まわりを見渡してみても、ベスト・パートナーと誰もが認め、踊る側も観る側も幸せな組合せが今どれだけあるのか。日本のバレエ団の花形スターが世界各国のスターと次々に組んだからといって、観る側は必ずしも幸せではない。バレエにおけるパートナーの難しさ微妙さを思います。

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公演感想2011 | 【2011-01-31(Mon) 23:11:29】
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新国立劇場バレエ団 牧阿佐美版「ラ・バヤデール」 1月16日 新国立オペラ劇場
ニキヤ:川村真樹
ソロル:芳賀望
ガムザッティ:堀口純
ハイ・ブラーミン:森田健太郎
マグダヴェヤ:吉本泰久
黄金の神像:福田圭吾
トロラグヴァ:貝川鐵夫
ラジャー:逸見智彦

ジャンペの踊り:井倉真未、米沢唯
つぼの踊り:寺田亜沙子

パ・ダクション
ブルーチュチュ:西川貴子、寺島まゆみ、丸尾孝子、本島美和
ピンクチュチュ:さいとう美帆、高橋有里、大和雅美、伊東真央
アダジオ:グレゴリー・バリノフ、江本拓

第1ヴァリエーション:長田佳世
第2ヴァリエーション:西山裕子
第3ヴァリエーション:米沢唯

指揮:アレクセイ・バクラン
管弦楽:東京交響楽団

新国立劇場の古典全幕、牧阿佐美改訂版のなかでこれだけは好きな「ラ・バヤデール」、新国立の誇る美しいコールドと大好きな川村さんを楽しみに観て来ました。
全体に踊りの出来は破綻なく、なかなか美しくまとまった公演だったと思います。けれど登場人物たちのドラマが強く伝わってこなくて、「ラ・バヤデール」の濃い世界を堪能した感じがないのが残念。

川村さんのニキヤは寺院の踊り子としての誇りや芯の強さは持っているけれど、その強さを前面に鋭くは打ち出さない。今まで見てきたニキヤたちがアクセントを強くつける踊りの箇所でもふんわりとしたところがあり、好みの分かれるところかもしれないが私は彼女のこのたおやかさが気に入っている。最初にソロルとの逢引で踊るところでは愛するひとと共にいる歓びをうたいあげて素敵だったけれど、ソロルの裏切りが発覚したあたりから、川村さんと芳賀さんがうまくかみ合っていないような印象を受けた、主に演技の面で。
踊りはさすがに初役初日(といってもこの1回きりだが)の緊張があるのか、いつもの川村さんの伸びやかさがもう一歩。芳賀さんとのパートナーシップももう少しだったように思う。複数回続けて踊れると違うのだろうから1回きりとはもったいない。

芳賀さんのソロル、踊りはなかなか良かった。ただ踊っていないとき、踊り始め踊り終わりのつなぎの部分に踊っている最中のしなやかさと落差がある。それを感じさせないほうが好ましいと思う。さらに残念だったのは演技が伝わりにくいこと。やることはやっているようにお見受けしたが、はっきりしない。二人の女性の間で苦悩するのがソロルだが、その揺れ方がどっちつかずのように感じられた。まさにそこを目指していたのかもしれないけれど。

堀口さんのガムザッティは誇り高く傲慢なお姫様でなかなか強い。ニキヤとの対決はけっこう見応えがあって良かった。踊りも綺麗だったけれど、ガムザッティの堂々たる輝きを放つところまではもう少し。

森田さんのハイ・ブラーミンはそこそこ的確な存在感。もう少し色気と狂気じみたものがあっても、と思うのは欲張りか、他のダンサーに影響されすぎか。牧版の路線は違うのかもしれないけれど、あちこちでソロルよりハイ・ブラーミンによろめいている身には物足りなく。

演技は控えめだが、逸見さんのラジャーはあの服装が良く似合い雰囲気たっぷり。あんな美しい父だったら娘は大変ではないかしら。

他様々な踊りもだいたい良かったです。
特筆したいのはやはり影のコールド。新国立のは本当に美しい。実は今回もっとも引き込む力が強かったのがこの場面でした。新国立のダンサーは清潔でお行儀のいい感じが強く、それが物足りないことも多いのですが、この影だけは本当に絶品。
もうひとつ、第1ヴァリエーションの長田さんが素晴らしかった!この人の踊りは目に耳にこころよい。ラインが美しく音楽なのでしょう。

おまけ
輪島拓也さんのハイ・ブラーミンを楽しみにしていますが、今日はパ・ダクション前のワルツでご出演でした。普段は真ん中の女性たちを楽しむのですが、上手カップル4組の一番奥にいた彼ばかり見ていました。だってハイ・ブラーミンは踊らないー。

公演感想2011 | 【2011-01-16(Sun) 22:28:55】
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